微妙な心霊スポット
うさお
本牧十二天の名前の由来は、八方の方角と天地の神を合わせた十天に、太陽と月の神、日天と月天を合わせた十二の神から来ています。村や人々を災厄から護るために日本各地に十二天を祀る神社が建てられました。しかし、明治元年(1868年)の「神仏分離令」により、仏教由来の神を祀る神社は廃され、神道由来の神に変更させられ、本牧十二天社は本牧神社となり、祭神は大日霊女命となりました。
神奈川横濱二十八景のうち、神奈川を見ると小高い丘の上に杣道が細々とあり、崖の切れ目に神社が建てられています。その説明文には「此の所は十二天の社 同山に登り海洋を見渡すと向かって東の方に上総かのふ山 あわせて木更津の方まで ひとめにみるの景色なり」とあります。
明治になってからの絵葉書を見ると、上部は平坦ですが崖は切り立った絶壁です。
神奈川横濱二十八景神奈川 (本牧十二天のパネルから)
明治時代の絵葉書 (本牧十二天のパネルから)
この本牧十二天は、本牧の海に突き出たMandarin bluff(橙色の急斜崖)があることで、歴史に名が刻まれることになります。その特徴的な色の崖を航行の目印にして、ペリー提督の黒船は安全に湾内に入って来れました。
ぺリーは横浜湾周辺の水深を測量し海図を作ります。そこには十二天の崖が、マンダリン・ブラフ(みかん色の崖:さっきと和訳が違うじゃないか!)と記されていました。
早速、元の本牧十二天を見に行ってみましょう。近くのノジマの駐車場に車を置いて出かけます。神仏愛好家のjunji君夫妻に連れて来て貰いました。
申し遅れましたが、旧本牧神社(本牧十二天)は「心霊スポット」として有名です。みだりに境内を汚すと、何かが憑いてきます。
意気揚々と出かけます 2025年10月10日
歩道橋には白いカモメがデザインされている 2025年10月10日
振り返ると山の向こうにランドマーク・タワーが見える 2025年10月10日
Caccoの従弟のjunji君夫妻 2025年10月10日
ドングリやクヌギの実が沢山落ちています。丹沢から熊が下りてきたら私たちは一瞬のうちに全滅です。周囲を注視していると足元に銀杏の実が無数に落ちていて踏みそうになります。足が臭くなっちゃいます。誰も銀杏を採りに来ないのかな。
クヌギの実 結構自然が残っている 2025年10月10日
しばらく歩くと、中部水再生センターと横浜市消防局 中消防署北方消防出張所が見えてきます。10年くらい前のこの辺りは倉庫群と、資材置き場、モータープールしかありませんでした。この本牧十二天の対面に横浜マリンハイツというマンションが2棟建って居ます。
このマリンハイツは、周囲の道路がトラックなどの貨物車が行き交い、バスなどの交通の便が悪く、南西方向に漸く人家が出てくる立地条件でした。
人通りもほとんど無いと思われるのに、このマンションにはラーメン屋が密集しています。ものすごい謎の地帯です。
港食堂、やらかし亭ラーメン、中華料理栄濱楼、ラーメン大将錦町店、台湾料理百鶴樓、横浜ナポリタン・パンチ本牧埠頭店(実はラーメン屋)、浜っ子どんどん本牧店、ハマテキ、中華そば東光など、10店舗が並びます。
中部水再生センター 2025年10月10日
着きました、この一角が旧本牧十二天の境内です。右の小山がマンデリン・ブラフ、中央の舗装路が昔の参道です。
本牧十二天の旧境内 2025年10月10日
その昔の歴史を綴ったパネルが並ぶ 2025年10月10日
junji君は樹医さんの資格も持っているので、周囲の樹木にも興味があるようです。
本牧十二天の樹木
本牧十二天の森は、昔はクロマツが中心でしたが、現在はタブノキが多く見られます。クロマツは「江戸名所図会」によれば「本牧の塙にあり、(中略)巖頭数株の松樹鬱蒼として栄茂せり」と記され、以前にあった十二天社にいたる松並木もふくめて本牧十二天の風光明媚な景観を形づくっていたようです。
本牧十二天の樹木 2025年10月10日
junji君夫妻 歴史パネルが並んでいる 2025年10月10日
もしかして黒船のイメージか? 2025年10月10日
さあ、あの急斜崖に行ってみましょう。
マンダリン・ブラフ
かつて本牧の海に突き出た十二天の崖は、黒船のペリー提督の海図によると「マンダリン・ブラフ」と名付けられています。
日本来航時、横浜周辺の推進を測量した艦隊は十二天の黄色い崖をみて、その色から「Mandarin bluff」(みかん色の崖)と呼び、当時はるばる海を渡ってきた船はこの崖を航行の目印としていました。
マンダリン・ブラフ 2025年10月10日
みかんのように黄色く見えるのか興味津々でしたが、そんなに吃驚するほど黄色くありません。普通の関東ロームのようでした。(下部は吹付けコンクリートで補強されていました)
マンダリン・ブラフ 黄色か? 2025年10月10日
マンダリン・ブラフ東面 斜面を吹付コンクリートで補強 2025年10月10日
蘊蓄を傾けるうさお 2025年10月10日
戦後、本牧一帯が米軍に強制接収された時に、海を埋め立て広大な敷地に本牧キャンプが出来上がります。本牧十二天社もその時に遷座させら、二度目の遷座で今の本牧神社に移転させられます。
なので、この本牧十二天前の歩道や道路は昭和25年頃まで海でした。
この歩道は海だった 2025年10月10日
昭和25年ごろまでは周囲は海 (本牧十二天のパネルから)
本牧の米軍キャンプは日本人にとって羨ましい所でした。うさおが学生だった頃でもPX(米軍の基地内にある「Post Exchange」の略で、兵士やその家族向けの売店)や映画館はありました。鉄条網の先にGIや軍属が楽しそうに語らっているのが見えます。
大学生の頃に漫画を描いていた友人と、本牧PXの近くの喫茶店で夜を徹して喋っていたことを思い出します。うさおは夢破れて建設マンになりますが、彼は漫画家のアシスタントをして夢を見続けました。夢は本牧の米軍キャンプのようにすぐ手の届くところにあるのに、鉄条網とMPがそれを阻んでいました。
本牧アベニュー 米軍キャンプ 出典※1
本牧アベニュー 米海軍PX 出典 https://hama80s.exblog.jp/19116696/
本牧十二天にあるパネルに興味深い写真がありました。米軍に接収中は山の上に配水塔が置かれていたと書かれています。そこで昭和45年頃の本牧アベニューの写真を見ると、中央に本牧十二天のような小高い丘が写っています。おお、丘の上に同じような配水塔があるし、煙突かアンテナのようなものもあります。米軍の施設として使われていたようです。
本牧アベニュー 小高い山は本牧十二天 1970年 出典※1
米軍に接収中は山の上に配水塔が置かれた (本牧十二天のパネルから)
写真出典
※1:
https://hamarepo.com/story.php?story_id=2381
本牧の街はどこか米軍キャンプの香りがします。例えばハンバーガー「BOOGIE STUDUO」さんとか、本牧食堂のレトロ感とか、外人が好みそうだなあ。
BOOGIE STUDUO 2006年5月3日
左側が旧市街 2006年5月3日
本牧食堂 2011年5月1日
本牧十二天は「心霊スポット」として有名です。米軍による海の埋め立てや造成工事が始まり十二天の周りも騒然としてきます。宮司の祖母は反対派で、境内に入ってくる米兵に立ち向かっていました。 ところがある日、遺体で発見されます。体にはブルドーザーで轢かれた跡が残っていたとか。
その日から神社前の道路に老婆が倒れており、呪詛を吐きながら消えていくことを繰り返しました。またある時は、女性の死体遺棄事件があり、誰云うともなく「本牧十二天の森には入ってはいけない」と言われるようになりました。
ああぁ、怖い、怖い。本牧神社にお参りしておこう。
戦後、本牧十二天は仮遷座を余儀なくされ、50年経って漸く本牧和田のこの地に移って、本格的な社殿が建てられました。名称も明治に本牧神社と変わりましたし、本牧十二天の香りも感じられません。。
新本牧公園の北側に大きな鳥居があります。そこが本牧神社です。
大鳥居 2011年5月1日
本牧神社では、毎年八月にお馬流しが行われます。これは茅で作った馬首亀体のお馬さまを、六ヶ村分作り本牧の海に流すという神事です。お馬流しにより総ての厄災を海に流してしまいます。
話は長くなりましたが、その時に海に繰り出されるのが、この二隻の木造船です。
二隻の木造船 2011年5月1日
お馬流しの神事
https://honmoku.or.jp/home/%E3%81%8A%E9%A6%AC%E6%B5%81%E3%81%97/#jp-carousel-495
境内には、お参りどころが多々あります。さまざまな摂社がありますよ。
お参りどころの一つ 2011年5月1日
これが残念なことにピントがボケてる写真しかありませんが、ご近所に住む「ゆず」の北川悠仁さんが2004年に寄進した時の碑です。横に名前も彫ってあるのですが撮り損ねたので、雰囲気だけ味わってください。

北川悠仁さんの寄進碑 2011年5月1日

水天宮(小鳥居)と本牧天神社 菅原道真公を祀る 2011年5月1日
ここの御祭神の縁起を見てみよう。下の図は水天宮のお参りの仕方を書いてあり、妊婦がこの小さい鳥居をくぐって参拝する方法を示しています。お腹が大きくなり過ぎたら参拝しずらいね。
本牧神社御祭神
主祭神 大日靈女命(天照大御神)
相殿 須佐能男命 大山津見命 木花咲耶姫命
■正一位宇気の稲荷社 「宇気」は「豊受」の「ウケ」で、五穀豊穣をつかさどる「保食の稲荷大明神」の意。また「宇気」は「有卦」であり、「有卦に入る」という言葉のように、陰陽道で「吉兆」を啓示し《素晴らしい人物や金運にめぐり逢える》とも言われる。気学では、「宇」は「家の屋根のひさし」を意味し、「宇気」は「家に《気》が満ち満ちているさまを具現し、商売督盛・杜業繁栄・五穀豊穣・開運招福にご神徳あらたかと伝えられる。
■本牧天神社 学問の神様といわれる「菅原道真」公をまつり、横浜の名園「本牧三渓園」に間門より移築されている「間門天神」と同様、京都の北野天満官よりご分霊をいただいている。特に受験生などに合格祈願・学業成就のご神徳を慕われている。
■本牧水天宮 横浜には珍しい水天宮は、安産の守り神として名高い。懐妊五ヵ月目の戌の日に参拝し、「壽」と書いた岩田帯を締め、安産のうちにすこやかな赤児を授かるように祈念する。
■縁切熊野神社 速玉之男神をまつる。日本書紀によれば、イザナギノミコトが黄泉国の醜さを嫌ってイザナミノミコトに対し族離れ(別離宣言をなされたとき、振り払った衣の裾からお生まれになった神。
「悪しき縁を断ち、けがれを祓う」ところから、転じて「良縁にめぐり逢い、相整う」という。
■阿大利神社 大山阿夫利神社より分霊を受け、大山祇神をまつる。森林・山岳の神であると共に、大山が、相模湾、東京湾の漁師に好漁場を知らせる目安(山アテ)であることから、大漁満足、航海安全のご神徳で知られる。
■若宮八幡宮 「若宮」とは本宮のご分霊を奉斎しているの意。京郡・石清水八幡宮より受けている。誉田別尊(應神天皇)、比賣神、息長帯姫命(神功皇后を併せまつり共に軍神、武勇の神として源氏をはじめ、その流れを汲む武将(新田・足利、戦国時代の武田・佐竹・里見・小笠原・南部、徳川・池田・蜂須項等)に崇拝されてきた。

本牧神社御祭神 2011年5月1日
宇氣の稲荷社は小さいながらも赤い鳥居が並び、雰囲気を出しています。お使い番の狐さんもちゃんと居ます。鳥居の陰にある茶色い碑石が北川悠仁さんの寄進碑です。

宇氣の稲荷社の使い番 コン! 2011年5月1日

宇氣の稲荷社 2011年5月1日

手水舎 2011年5月1日
本殿に祀られている主祭神は、大日靈女命と天照大神、これは同一神です。除災招福、心願一切成就をしてくれます。また、主祭神の他に先ほどのパネルにあったように阿夫利神社、若宮八幡宮が合祀されています。
この大注連縄は出雲大社の注連縄と同じ
撚り方ですね。

本殿 2011年5月1日

扁額 2011年5月1日
神社の裏手に紙垂を張り巡らした畑地がありました。神饌のための作物を育てているのでしょうか。どんなものが神様に奉納されるのか、興味があります。そして畑の延長線上のやや小高い所に小さな祠が見えます。
山に沿った階段を昇ると本牧山頂公園に辿り着きます。

神田畑 2011年5月1日
本牧山頂公園から神社に続く鳥居の脇に、歌碑がありました。
一郷の禊の お馬流しかな 鉄之介
「一郷」とは精進することです。でも、鉄之介とは誰のことですか?

歌碑 2011年5月1日
階段のたもとに熊野速玉社の祠があります。祠の脇の太い樹木は「榎」の木です。
縁の神 熊野速玉社
室町時代より本牧十二天社(本牧神社の旧称)の境内社として祀られていた六社のうちの一杜。速玉之男神を祀る。
和歌山県新宮市にある熊野速玉大社より勧進された。御神紋は三本足の八咫烏。
日本書紀によれば、速玉之男神は伊邪那岐命が黄泉国の醜さを嫌って、伊邪那美命に対し族離れ(別離宣言)をなされたとき、振り払った衣の裾からお生まれになった神。「悪しき縁を断ち、穢れを祓う」といわれ、転じて「良縁に巡り逢い、相整う」という。
傍らの双胴の絡み会う木は「榎」で、榎は「縁の木」(ゑんの気)といわれ、心深く念じながらぐるりと根元を右に廻れば、さらに絡み合い、「良縁」が深まり相整う。左に廻れば絡みを解いて悪縁との「縁切り」が叶い、新しき「ゑにし(縁)」を期すことが出来るという。

熊野速玉社 2011年5月1日

熊野速玉社の祠と「榎」の木 2011年5月1日
本牧神社の前に新本牧公園が広がります。「お馬流し」の神事の実態を知らなかったので、この公園の周りの道路が見事なサーキットになっているので、流鏑馬の神事のように馬で流して回るのかと思っていました。

新本牧公園 2011年5月1日
