馬場の赤門
         旧澤野家の門
 

                       うさお&Cacco


 頭上を爆音が響きます。二機の自衛隊の大型輸送機が飛んできます。4発のターボプロップ・プロペラと水平尾翼が下に付いているので、たぶん、HC-130(ハーキュリーズ)でしょう。 すわ、有事でも起こったかと心が騒ぎます。この馬場町のあたりは通常の航空機の飛行ルートではありません。

 
輸送機の襲来 ゴジラでも来たのか? 2025年5月1日

 馬場町の第一みゆき商店街からほんの少し東に向かうと、そこに「馬場の赤門」と言われる長屋門があります。安政二(1855)年に四ヶ村の総代名主で名字帯刀を許された澤野家の門です。
 2000年の頃は、この前の道路を日吉・綱島に抜ける近道としてよく使っていました。しかし、赤門前のT字路は見通しが悪く、急に車が現れてヒヤッとしたものです。


馬場通り第一みゆき商店街 馬の看板は今は無い 2001年5月14日

25年前の馬場の赤門 今と変わらない 2001年2月25日

 Caccoの従弟夫婦と「馬場の赤門に」に訪れてみました。こんなにじっくりと赤門や裏の公園を見たことがありません。


馬場の赤門 2025年5月1日

馬場の赤門東側 2025年5月1日

馬場の赤門正面 2025年5月1日

馬場の赤門西側 2025年5月1日

馬場の赤門裏側 2025年5月1日

 何やら赤門の由来が説明してあります。


「告」の高札 2025年5月1日


馬場の赤門
江戸時代の名主(代官の支配下に村内の民政を扱った)屋敷の長屋門で幕府より紅がらぬりを許された。安政年間十八五五年に建てられ東寺尾、北寺尾、西寺尾、馬場、四ヶ村総代名主当時の建物です。
ふるさと再発見 寺尾奉行

 沢野家九代豊(不明)氏が建立した石碑があります。読んでみましょう。


澤野家の石碑 2025年5月1日

「人類は太古の昔より地上に石を立て土を盛り上げてそれが碑となり塚となって後世に傳えられた。
我が家の祖先は二百有余年前此の地に分家、祖先三代にわたりよく働き郷里郷党のために尽くした。
東西馬場北の寺尾四ヶ村徳川幕府直領の総代名主として名字帯刀並びに間口八間半の長屋門に紅殻塗をゆるされた。人稱して、「赤門」と呼び近郷の目標となる。
明治の初年には土地所有の面積十八万坪を記録したが、第二次世界大戦敗戦の余波は我が家にも及び所有地の大部分が解放を命じられるに至った。
之は歴史の興亡を考えれば止むを得ぬ事ではあるが子々孫々に至るまで祖先の功労道徳に報いる事守護神伏見稲荷の祭祠を忘るべからず。
心今もいこい(空白)在さむ自然林永久に傳へむ鳥のすみかに
昭和五十二年七月
沢野家九代豊(不明)選文建碑
川崎市議会議員篠田茂男書」

 門に紅殻塗が出来るのは大層身分の高い証拠です。有名な東京大学の赤門は、加賀前田家が徳川家の姫をもらい受けた時の婚礼用の門です。将軍家の姫の嫁入りには朱塗りの門を造り迎え入れなければなりませんでした。


裏の公園 2025年5月1日

 裏に回ってみると、広大な公園になっています。ここで右手の崖の上に注目していただきたい。木々の間から何やら紅色のものが見えています。
 冒頭の2001年2月25日の赤門の写真を見ていただくと、石碑の上方に何やら朱塗りのお社のようなものが写っています。昔からのゆかりのあるお社かと思っていましたが、これはどうやらアースクリーン社という建材屋さんの安全を祈願する稲荷社のようです。とは言え旧澤野家にあったものを其の儘、祀ってあるのかも知れません。


お社のようなものが見える 2025年5月1日

 ここでフォトラベル・ブログに載っていた写真を拝借して見てみると、紅色の鳥居群が見て取れます。
 参照:https://4travel.jp/travelogue/11310421


フォトラベル・ブログより鳥居群

 流石、5月なので木々の緑が青々として綺麗です。石碑と儒学者の様な像が並んでいます。CaccoとMilkyさんは碑文を一生懸命読み解いていました。概ね、先ほどの石碑の内容と同じことが書いてあります。


流石5月だねえ 2025年5月1日

面白そうな像があります 2025年5月1日

孔子様でしょうか? 2025年5月1日

先ほどの碑文とほぼ同様の内容 2025年5月1日

 公園の奥の方にも高札が建っています。綿内谷の由来が書いてあります。


綿内谷の由来 2025年5月1日


綿内谷
 かつて馬場の一、二丁目、通称赤門付近の谷間あたりは「綿内谷」と呼ばれていた。明治頃まで高台では綿を栽培し自家用の機織りがどこでも行われていた。綿を打つ職人の家が四、五軒あり、農業のかたわら打っていたと伝えられている。機職人の住んでいた集落ということで綿内谷と云う字名になったと云う。
ふるさと再発見
寺尾奉行


 うさおの母方は子安にあった綿問屋でした。綿を加工して海外に輸出していたと聞いていますので、この地域の綿と何らかの所縁があったのかも知れません。余談ですが、この当時は綿問屋が多くあったようで、横浜港のコットン・ハーバーに集荷され、船出していったそうです。

 横浜市三千分一地形図(昭和4年菊名地区)を見てみると、建功寺の北東側に馬場の赤門があり、後ろにあるのが母屋であろう。母屋の北側に小さな建屋がありますが、これが稲荷社だったもしれません。地域名は馬場町綿内谷となっており高札の通りです。


横浜市三千分一地形図画像 昭和4年菊名地区 抜粋

横浜市認定歴史的建造物 2025年5月1日

 帰りの道すがらファンキーなお店を見かけました。何のお店でしょう。「マイケル・ジャクソン」が描かれています。


踊るマイケル 2025年5月1日